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Lalo Garcia Garcia من عند Sheynovo, بلغاريا من عند Sheynovo, بلغاريا

قارئ Lalo Garcia Garcia من عند Sheynovo, بلغاريا

Lalo Garcia Garcia من عند Sheynovo, بلغاريا

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気鋭の文化人類学者による労作。 第一章では〈お茶〉における「点前」をフーコーの「鍛錬(ディシプリン)」の概念との対比によって読み解くことから始まり、家元制度の下に独自の様式として展開した「お許し」という制度や、宗教性と結びついた――とはいえそれは厳密なものではなく精神性の強調と権威的正当性を付加する装置と看做される――儀礼的側面等を分節しつつ〈お茶〉の構造として分析する。第二章はまず文化ナショナリズムの批判的検討を導入部とし、日本伝統のいわば「総合文化」として〈お茶(茶道)〉が発展していく過程を裏千家の戦後の言説戦略に着目しつつ分析しながら、同時に明治期から戦後にかけての〈お茶〉の担い手が女性へと変容してゆくプロセス(これに関連しての高度経済成長期に完成した「戦後の家族体制」の社会学的分析も興味深い)を検討する。第三章では「社中」という独自の社会的ネットワークでの参与観察と社中間の比較を通じてその文化を考察し、これがその志向性によって階級的同質性を強化する装置であると同時に、茶道修練者のエンパワーメントという側面を持つことが明かされる。第四章では関係者への個別インタヴューやアンケートを中心に、茶道修練者のライフ・ヒストリーとそれぞれの社会的位置(年齢、学歴や職業、ジェンダー等)による〈お茶〉観の特徴が具体的に語られ、結論部では各章の考察を振り返り、〈お茶〉という活動を通じての女性たちのエンパワーメントの諸相(とくに既婚女性におけるそれ)について丁寧かつ説得的に述べられている。 とりわけ、ブルデューの議論(象徴資本/文化資本/経済資本)を援用しつつ、女性たちのエンパワーメントが〈お茶〉によって何故可能となるのかを極めて具体的に論じ、それによって「家元制度」という家父長制システム(一般に「部外者」の目からこれは旧弊な権力装置であり、かつまた多分に秘儀的な世俗制度として、否定的な側面のみが強調されるきらいがあるだろう)に則りながらも、そうした「権威性」をも取り込むことによって「家父長制と共存しつつ抗う」という性格を帯びる「女性にとっての〈お茶〉」を明らかにする手際は鮮やかだ。その上で、女性の「自立」を促すとある「男性」学者の意見を取り上げ、一見「良心的」なその提言が無自覚に内在したままの男性中心主義を批判しつつ「明らかに、変わらねばならないのは、女性茶道修練者たちではなく、女性がすでに自律的な、精神的な人間であることを否定しつづける男性たちの方であろう」とする結語は――これだけを抜き出せば凡庸な結論に見えるが――、非常に強い説得力を持つ。 議論の詳細については実際にぜひ本書を手に取って確認していただきたい。参与観察に基づく具体的な知見と冷静な分析が余すところなく駆使された〈お茶〉と女性をめぐる明晰な文化誌であるとともに、〈お茶〉という営みを通じて読み解くユニークな「戦後日本文化」論ともなっている。また、普段馴染みのない者にとっては漠然と「伝統」のヴェールに覆われた不可視の社会とさえ映る〈お茶〉の世界が、独自のダイナミズムを持つコミュニタスとして描かれることによって、思いがけなく新鮮な印象を与えてくれる。茶道に昏い読者でも十二分に知的興奮を味わうことができる、多様な読みへと可能性が開かれた興味の尽きない一冊であると言えるだろう。 なお、著者自身はそうとは言っていないものの、本書で描写される「点前」という身体技法(作法)やそこで用いられる茶道具やそれを取り巻く文物の歴史的/文化的背景への配慮の視線からは、たんなる「(お行儀としての)作法」の習得や「勉強」(これは一般に意味する規定を含みつつ茶道修練者の間での独特のキィ・タームともなっている)を超えて、モノの語り――アフォーダンスとしての「モノ語り/物語」――への親和性を深める「鍛錬」という側面があるではないか、ということを気づかされた。むろん、著者の問題構制や関心からはこうした視点は不要であろうし、また、これは〈お茶〉=「総合文化」という言説を受容した上ではじめて可能になる読み方でもあるのかもしれないが、茶の湯/茶道に特有の身体規律訓練の性格と、日本の宗教風土に連綿と続くアニミズム的な心性(ただし、本書でも注意を促しているように、これについては〈お茶〉を宗教性と安易に結びつける言説と注意深く切り離したうえで考えるべきだろう)とを併せて考えれば、このような方向への展開も充分に可能なのではないかと思われる。 ところで本書は、Etsuko Kato, The Tea Ceremony and Women's Empowerment in Modern Japan: Bodies Re-presenting the Past, RoutledgeCurzon, 2004 の日本語版で、原著から巷間に流布する茶道言説の「神話作用」を批判検討した章(「身体の鍛錬と神話」)が割愛されたうえで大幅に改訂されたものだという。紙幅の都合と研究者に限らない幅広い層の一般読者へ向けての便宜を図ってとのことだが(その措置は本書において充分な成功を収めているように思う)、この未訳部分もいずれあらためて日本語で読める機会があることを望む。